夏目漱石先生の追憶
寺田寅彥(Torahiko Terada)筆名吉村冬彥等嘲叔,日本隨筆作家奠支、地球物理學(xué)家晕讲、畫(huà)家拳缠。1878年11月28日生于東京麹町區(qū)(今千代田區(qū))墩新。父親為高知縣士族。少年時(shí)廣泛閱讀文學(xué)書(shū)籍窟坐。1896年進(jìn)入熊本縣第五高等學(xué)校讀書(shū)海渊,師從文科和英語(yǔ)教授夏目漱石和物理教授田丸卓郎。1899年考入東京帝國(guó)大學(xué)物理專(zhuān)業(yè)哲鸳。畢業(yè)后任教切省,1916年起任東京帝國(guó)大學(xué)教授。
早在中學(xué)時(shí)期帕胆,寺田寅彥即與已是著名作家的夏目漱石結(jié)下了深厚的友誼,并向他學(xué)習(xí)俳句創(chuàng)作手法般渡,經(jīng)常利用課余時(shí)間進(jìn)行俳句創(chuàng)作和開(kāi)展朗誦活動(dòng)懒豹,作品也常出現(xiàn)在作家正岡子規(guī)辦的《日本報(bào)》上。其間師徒倆還共同研習(xí)西歐名師的水彩畫(huà)和聽(tīng)音樂(lè)會(huì)驯用。在與老師的交往中脸秽,他不僅得到許許多多的教誨,學(xué)到了創(chuàng)作俳句的技巧蝴乔,還懂得了靠自己的眼睛去發(fā)現(xiàn)自然美的真諦记餐,同樣,也學(xué)會(huì)了辨識(shí)人們內(nèi)心的真?zhèn)无闭瑥亩鵁釔?ài)純真片酝、憎恨虛偽。
后來(lái)挖腰,寺田寅彥在從事物理學(xué)研究的同時(shí)雕沿,還熱心于隨筆創(chuàng)作,他將詩(shī)心和科魂“一體化”猴仑,創(chuàng)造出科學(xué)與文學(xué)相融合的獨(dú)特文體审轮,在日本文學(xué)中占有一席之地。《追懷夏日漱石先生》即是他回首往事的精彩之作疾渣。他的作品多以吉村冬彥的“假名”發(fā)表篡诽,文章晶瑩剔透,有“洞穿事物本質(zhì)的超越直感力”榴捡。他的文學(xué)集子有100多篇杈女,代表作有《橡樹(shù)》、《蔞柑子集》薄疚、《龍舌蘭》碧信、《亂涂在拉窗上面的字》、《病房里的花》街夭、《電車(chē)與洗澡》砰碴、《蛹之線條》、《團(tuán)栗》和《小事》等等板丽。其作品構(gòu)思新穎呈枉、手法巧妙,形成獨(dú)特風(fēng)格埃碱。另著有《漱石俳句研究》猖辫、《寺田寅彥隨筆集》等。
譯文+日文
那還是在熊本縣第五高等學(xué)校學(xué)習(xí)的第二學(xué)年期末考試結(jié)束時(shí)的事砚殿。本縣的學(xué)生中組織了一個(gè)所謂“要分?jǐn)?shù)”運(yùn)動(dòng)委員會(huì)啃憎,遍訪任課教師家,為兩三個(gè)“可能不及格”的學(xué)生爭(zhēng)取分?jǐn)?shù)似炎。不知是幸運(yùn)呢辛萍,還是不幸,我也被推選為該委員會(huì)的委員羡藐。當(dāng)時(shí)贩毕,夏目漱石先生教的英語(yǔ)課不及格的學(xué)生中有一個(gè)是我的親戚,因?yàn)榧邑毱袜拢瑢W(xué)費(fèi)靠他人資助辉阶,萬(wàn)一留級(jí),恐怕就再無(wú)法得到續(xù)學(xué)的學(xué)費(fèi)了瘩扼。
熊本くまもと第五高等學(xué)校在學(xué)中第二學(xué)年の學(xué)年試験の終わったころの事である谆甜。同県學(xué)生のうちで試験を「しくじったらしい」二三人のためにそれぞれの受け持ちの先生がたの私宅を歴訪していわゆる「點(diǎn)をもらう」ための運(yùn)動(dòng)委員が選ばれた時(shí)に、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった集绰。その時(shí)に夏目先生の英語(yǔ)をしくじったというのが自分の親類(lèi)つづきの男で店印、それが家が貧しくて人から學(xué)資の支給を受けていたので、もしや落第するとそれきりその支給を斷たれる恐れがあったのである倒慧。
首次拜訪時(shí)按摘,先生是住在白川河畔靠近藤崎神社附近一條靜謐的大街上包券。有的老師不問(wèn)情由就將前來(lái)要分?jǐn)?shù)的學(xué)生拒之于門(mén)外,而夏目漱石先生卻毫無(wú)芥蒂地愉快地接待了我們炫贤,默不做聲地聽(tīng)取了我們?cè)敱M的哀求之言溅固。誠(chéng)然,他是不會(huì)馬上說(shuō)什么同意或不同意加分之類(lèi)的話的兰珍。在完成了這一重大的委員使命之后的雜談也將結(jié)束的時(shí)候侍郭,我提出了一個(gè)頗為愚劣的問(wèn)題:“徘句究竟是什么呢?”這委實(shí)是由于我久仰先生作為一個(gè)俳句家的大名掠河,或者是自己對(duì)俳句的興趣已經(jīng)甚為膨脹之故亮元。當(dāng)時(shí)先生給我答復(fù)的要點(diǎn)至今猶在耳畔∵肽。“俳句乃集修辭學(xué)之大成”爆捞;“顯示并抒寫(xiě)扇軸似的感情的焦點(diǎn),而后暗示出聯(lián)想廣闊的世界”勾拉;“據(jù)說(shuō)它像花舞雪飄般的常規(guī)描寫(xiě)一樣平持笊”;“‘秋風(fēng)怒張白木弓’這樣的俳句為佳句”藕赞;“有的人怎么寫(xiě)也寫(xiě)不好俳句成肘,有的則一開(kāi)始就寫(xiě)得極妙”。聽(tīng)先生這么一說(shuō)斧蜕,想寫(xiě)俳句的意愿突然強(qiáng)烈起來(lái)双霍。于是,當(dāng)年暑假回鄉(xiāng)后批销,便用手頭資料寫(xiě)了二三十句洒闸。暑假結(jié)束后,九月一抵熊本风钻,首先去先生家請(qǐng)他過(guò)目。下一回再去造訪時(shí)酒请,先生將伴句詩(shī)稿還給我骡技,只見(jiàn)詩(shī)稿已經(jīng)作了精批細(xì)改,有的寫(xiě)了評(píng)語(yǔ)羞反,有的改成與原作意思相仿的范句布朦,其中有兩三句句首還加有圓圈。這以后昼窗,我便著了魔似地?zé)嶂杂谫骄鋭?chuàng)作是趴,一周要往先生家跑上兩三趟。那時(shí)澄惊,先生的家已由白川河畔遷至內(nèi)坪井唆途,距我寄宿的立田山麓路程很遠(yuǎn)富雅,不過(guò),我走得很愉快肛搬,宛如去會(huì)自己的心上人没佑。跨進(jìn)沒(méi)有屋檐的朝東的大門(mén)温赔,最里間屋門(mén)口是那塊脫鞋石蛤奢,它好像被橫打的雨水淋濕了似的。我記得陶贼,每逢雨天啤贩,我用手巾“咕哧咕哧”擦凈滿(mǎn)是爛泥的腳走進(jìn)屋里,先生讓我坐到緞子坐墊上拜秧,這時(shí)痹屹,總感到自己有些寒酸。房門(mén)左邊有個(gè)六鋪席大小的客廳腹纳,和它相鄰的西側(cè)房間約有八鋪席大小痢掠。走過(guò)這兩個(gè)房間前面的走廊,朝南是院子嘲恍,院內(nèi)平淡無(wú)奇足画,什么也沒(méi)栽種。從前面的建仁寺圍墻再過(guò)去一些地方便是耕地了佃牛。雖然是冬季淹辞,但早已枯萎的牽牛花的枝蔓仍然攀附在圍墻上俘侠,被風(fēng)吹得“唰啦啦”作響象缀。這間六鋪席的房間是普通的會(huì)客室,八鋪席的房間像是臥室兼書(shū)齋爷速。記得先生有首俳句道:“牽叛胄牵花緣手巾架”,那手巾架就安置在客廳前的走廊上惫东。
注:許多日本作家寫(xiě)過(guò)關(guān)于牽爬蚋花的俳句,舉例如下:
拙匠畫(huà)牽牛 牽帕冢花亦美
—— 芭蕉
牽磐嵌簦花,一朵深淵色
——蕪村
牽胖褪保花色艷叁幢,染得晨雨亦紫妍
——子規(guī)
牽牛花緣手巾架
——漱石
牽牌夯花爬上井繩了呀曼玩,只好去鄰家乞水
——千代
比遠(yuǎn)方的人聲鳞骤,更渺茫的是那綠草里的牽牛花
——與謝晶子
初めて尋ねた先生の家は白川しらかわの河畔で演训、藤崎神社ふじさきじんじゃの近くの閑靜な町であった弟孟。「點(diǎn)をもらいに」來(lái)る生徒には斷然玄関払いを食わせる先生もあったが样悟、夏目先生は平気で快く會(huì)ってくれた拂募。そうして委細(xì)の泣き言の陳述を黙って聞いてくれたが、もちろん點(diǎn)をくれるともくれないとも言われるはずはなかった窟她。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に陈症、自分は「俳句とはいったいどんなものですか」という世にも愚劣なる質(zhì)問(wèn)を持ち出した。それは震糖、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと录肯、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ発酵しかけていたからである。その時(shí)に先生の答えたことの要領(lǐng)が今でもはっきりと印象に殘っている吊说÷塾剑「俳句はレトリックの煎せんじ詰めたものである“渚」「扇のかなめのような集注點(diǎn)を指摘し描寫(xiě)して厅贪、それから放散する連想の世界を暗示するものである⊙疟觯」「花が散って雪のようだといったような常套じょうとうな描寫(xiě)を月並みという养涮。」「秋風(fēng)や白木の弓につる張らんといったような句は佳よい句である眉抬」嵯牛」「いくらやっても俳句のできない性質(zhì)の人があるし、始めからうまい人もある蜀变∏男常」こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった库北。そうして爬舰、その夏休みに國(guó)へ帰ってから手當(dāng)たり次第の材料をつかまえて二三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本くまもとへ著くなり何より先にそれを持って先生を訪問(wèn)して見(jiàn)てもらった贤惯。その次に行った時(shí)に返してもらった句稿には洼专、短評(píng)や類(lèi)句を書(shū)き入れたり棒掠、添削したりして孵构、その中の二三の句の頭に○や○○が付いていた。それからが病みつきでずいぶん熱心に句作をし烟很、一週に二三度も先生の家へ通かよったものである颈墅。そのころはもう白川畔の家は引き払って內(nèi)坪井うちつぼいに移っていた蜡镶。立田山麓たつたさんろくの自分の下宿からはずいぶん遠(yuǎn)かったのを、まるで戀人にでも會(huì)いに行くような心持ちで通ったものである恤筛。東向きの官还、屋根のない門(mén)をはいって突き當(dāng)たりの玄関の靴脫くつぬぎ石は、橫降りの雨にぬれるような狀態(tài)であったような気がする毒坛。雨の日など泥どろまみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで户盯、この二室へやが共通の縁側(cè)を越えて南側(cè)の庭に面していた喊崖。庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣けんにんじがきの向こう側(cè)には畑地があった豪直。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって殘っていたようである劣摇。この六畳が普通の応接間で、八畳が居間兼書(shū)斎であったらしい弓乙∧┤冢「朝顔や手ぬぐい掛けにはい上る」という先生の句があったと思う。その手ぬぐい掛けが六畳の縁側(cè)にかかっていた暇韧。
先生總是穿著黑色的和服短外褂勾习,正襟端坐著。有時(shí)新婚不久的年輕的夫人著一身有花紋的黑皺綢服到門(mén)口來(lái)迎接锨咙。在我這個(gè)鄉(xiāng)巴佬的眼里语卤,先生家似乎十分端莊、典雅酪刀,端上來(lái)的新鮮點(diǎn)心總是上等佳品粹舵。先生要一種類(lèi)似紅白水晶糕似的美麗、光亮的糕點(diǎn)骂倘,大概是他愛(ài)吃的眼滤。先生把我送去的俳句詩(shī)稿連同他自己的一并送到正岡子規(guī)處,子規(guī)批改后再還給先生历涝。之后诅需,其中的一些徘句會(huì)刊登在《日本報(bào)》頭版左下角的俳句欄里,我學(xué)著先生的樣高興地把它剪下收藏在紙袋里荧库,高興自己寫(xiě)的東西已經(jīng)變成鉛字見(jiàn)諸報(bào)端了堰塌。當(dāng)時(shí),除了我之外分衫,從先生處學(xué)習(xí)俳句的人中還有廚川千江场刑、平川草江和蒲生紫川(原醫(yī)學(xué)博士)諸位。這些人一開(kāi)始是自定題目作詩(shī)蚪战,互選作得好的俳句一起在先生家朗讀牵现,后來(lái)铐懊,也到別處搞過(guò)朗誦活動(dòng)。而先生還曾與我兩人對(duì)坐瞎疼,試過(guò)十分鐘作十首俳句科乎,這時(shí),先生詩(shī)如泉涌贼急,連翩而來(lái)茅茂,那跳躍的思緒,璀璨的詩(shī)句太抓,有時(shí)連他自己也會(huì)驚奇得吃吃地笑起來(lái)玉吁。
先生はいつも黒い羽織を著て端然として正座していたように思う。結(jié)婚してまもなかった若い奧さんは黒ちりめんの紋付きを著て玄関に出て來(lái)られたこともあった腻异。田舎者いなかものの自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた进副。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅くずもちのようなものを悔常、先生が好きだと見(jiàn)えてよく呼ばれたものである影斑。自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規(guī)まさおかしきの所へ送り机打、子規(guī)がそれに朱を加えて返してくれた矫户。そうして、そのうちからの若干句が「日本」新聞第一ページ最下段左すみの俳句欄に載せられた残邀。自分も先生のまねをしてその新聞を切り抜いては紙袋の中にたくわえるのを楽しみにしていた皆辽。自分の書(shū)いたものがはじめて活字になって現(xiàn)われたのがうれしかったのである。當(dāng)時(shí)自分のほかに先生から俳句の教えを受けていた人々の中には廚川千江くりやがわせんこう芥挣、平川草江ひらかわそうこう驱闷、蒲生紫川がもうしせん(後の原醫(yī)學(xué)博士)等の諸氏があった。その連中で運(yùn)座というものを始め空免、はじめは先生の家でやっていたのが空另、後には他の家を借りてやったこともあった。時(shí)には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある蹋砚。そういうとき扼菠、いかにも先生らしい凡想を飛び抜けた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった坝咐。
我曾向先生提出過(guò)要在他家當(dāng)寄食學(xué)生的請(qǐng)求循榆,先生說(shuō):“只有后面堆雜物的屋子亮一些,你來(lái)看看墨坚⊙硪”他把我?guī)У侥莾骸N乙灰?jiàn)那屋里滿(mǎn)是垃圾,連草席都沒(méi)有浦楣,是個(gè)名副其實(shí)的雜物間,便泄氣了咪辱,打消了這個(gè)念頭振劳。當(dāng)然,當(dāng)時(shí)我如果堅(jiān)持要住進(jìn)去油狂,先生也一定會(huì)幫我打掃干凈并鋪上草席的历恐,然而专筷,當(dāng)時(shí)竟沒(méi)有那樣的勇氣弱贼。
先生のお宅へ書(shū)生に置いてもらえないかという相談を持ち出したことがある磷蛹。裏の物置きなら明いているから來(lái)てみろと言って案內(nèi)されたその室へやは、第一责嚷、畳がはいであってごみだらけでほんとうの物置きになっていたので爆班、すっかりしょげてしまって退卻した蛋济。しかし旧困、あの時(shí)陡蝇、いいからはいりますと言ったら涣楷、畳も敷いてきれいにしてくれたであったろうが鞍爱、當(dāng)時(shí)の自分にはその勇気がなかったのであった。
那時(shí)和先生要好的教授同事中有狩野亨吉佑笋、奧太一郎坚弱、山川信次郎等人艰猬。漱石先生作的小說(shuō)《臺(tái)風(fēng)》中的一個(gè)模特兒便是奧氏胸蛛,他很有威信逆趣。
そのころの先生の親しかった同僚教授がたの中には狩野亨吉かのうこうきち、奧太一郎おくたいちろう抹腿、山川信次郎やまかわしんじろうらの諸氏がいたようである贡避。「二百十日」に出て來(lái)る一人が奧氏であるというのが定評(píng)になっているようである潘懊。
學(xué)校里教的是《一個(gè)吸鴉片者的自由》①和《織工馬南傳》②。松山中學(xué)時(shí)代的教學(xué)方法是采用非常仔細(xì)的逐字串講秸仙,不過(guò)嘴拢,我卻更喜歡與之相反的以達(dá)意為主的教學(xué)方法。上課時(shí)寂纪,先生只是流暢地朗讀席吴,隨后問(wèn):“怎么樣,理解嗎捞蛋?”與此同時(shí)孝冒,就文中的某一節(jié)在黑板上寫(xiě)出各種例證。有一次考試時(shí)拟杉,我背出幾段先生引用過(guò)的霍瑪?shù)脑?shī)句庄涡,將它引用到答卷上,結(jié)果成績(jī)使我大大得意了一番捣域。
①英國(guó)散文家德·昆西(1785—1859)的作品啼染。
②英國(guó)女作家愛(ài)略特(1819一1880)的小說(shuō)宴合。
學(xué)校ではオピアムイーターや焕梅、サイラス?マーナーを教わった。松山まつやま中學(xué)時(shí)代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたそうであるが卦洽、自分らの場(chǎng)合には贞言、それとは反対にむしろ達(dá)意を主とするやり方であった。先生がただすらすら音読して行って阀蒂、そうして「どうだ该窗、わかったか」といったふうであった。そうかと思うと蚤霞、文中の一節(jié)に関して酗失、いろいろのクォーテーションを黒板へ書(shū)くこともあった。試験の時(shí)に昧绣、かつて先生の引用したホーマーの詩(shī)句の數(shù)節(jié)を暗唱していたのをそっくり答案に書(shū)いて规肴、大いに得意になったこともあった。
先生走進(jìn)教室夜畴,先從西裝背心的內(nèi)袋里掏出不帶鏈子的鍍鎳表拖刃,輕輕放在桌子的一角,而后開(kāi)始講課贪绘。當(dāng)他神采飛揚(yáng)地講解復(fù)雜難懂的課文時(shí)有個(gè)習(xí)慣動(dòng)作兑牡,就是老伸出食指斜摁自己的鼻梁。碰上學(xué)生中有愛(ài)刨根問(wèn)底鉆牛角尖的税灌,先生便以一句話來(lái)使之語(yǔ)塞:“這事你問(wèn)寫(xiě)的人便可明白均函!”當(dāng)時(shí)亿虽,我的一些同學(xué)都十分害怕先生,然而边酒,他對(duì)我來(lái)說(shuō)经柴,卻是一個(gè)絲毫不令人可怕的、最和藹可親的老師墩朦。
教場(chǎng)へはいると坯认、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル側(cè)の時(shí)計(jì)を出してそっと機(jī)の片すみへのせてから講義をはじめた氓涣。何か少し込み入った事について會(huì)心の説明をするときには牛哺、人さし指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。學(xué)生の中に質(zhì)問(wèn)好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると劳吠、「そんなことは引润、君、書(shū)いた當(dāng)人に聞いたってわかりゃしないよ」と言って撃退するのであった痒玩。當(dāng)時(shí)の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが淳附、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである蠢古。
每天上午七時(shí)至八時(shí)課外講座時(shí)間奴曙,先生主要為文科的學(xué)生們講《奧塞羅》①。記得那是冬季草讶,從二樓的窗口望去洽糟,先生緊裹著黑大衣像游泳那樣急急跨進(jìn)學(xué)校大門(mén)時(shí),教室里頓時(shí)騰起了“啊堕战,來(lái)了坤溃,來(lái)了”的聲音。先生的大衣穿得齊齊整整嘱丢,風(fēng)度翩翩薪介,很是瀟灑。但是越驻,先生在自己家里身穿黑色和服短外褂那副冷漠端坐著的姿態(tài)汁政,總使我覺(jué)得他具有水戶(hù)流浪武士那樣的古風(fēng)。
①英國(guó)戲劇家莎士比亞(156——1616)的四大悲劇之一伐谈。
科外講義としておもに文科の學(xué)生のために烂完、朝七時(shí)から八時(shí)までオセロを講じていた。寒い時(shí)分であったと思うが诵棵、二階の窓から見(jiàn)ていると黒のオーバーにくるまった先生が正門(mén)から泳ぐような格好で急いではいって來(lái)るのを「やあ抠蚣、來(lái)た來(lái)た」と言ってはやし立てるものもあった。黒のオーバーのボタンをきちんとはめてなかなかハイカラでスマートな風(fēng)采ふうさいであった履澳。しかし自宅にいて黒い羽織を著て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士みとろうしとでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった嘶窄。
暑假里怀跛,先生給在家鄉(xiāng)探親的我寄來(lái)的明信片上,以洗練的水墨柄冲,畫(huà)著一個(gè)伸腿仰面朝天午睡的人吻谋,明信片上附著一首俳句詩(shī),詩(shī)里好像有什么“貍貓的午睡”之類(lèi)的句子现横。先生活脫是貍貓般的臉上長(zhǎng)著他特有的胡子漓拾。看來(lái)戒祠,當(dāng)時(shí)先生有著午睡的習(xí)慣骇两。
暑休に先生から郷里へ帰省中の自分によこされたはがきに、足を投げ出して仰向けに晝寢している人の姿を簡(jiǎn)単な墨絵にかいて姜盈、それに俳句が一句書(shū)いてあった低千。なんとかで「たぬきの晝寢かな」というのであった。たぬきのような顔にぴんと先生のようなひげをはやしてあった馏颂。このころからやはり晝寢の習(xí)慣があったと見(jiàn)える示血。
高中畢業(yè)升入大學(xué)之際,承蒙先生的介紹救拉,我到上根岸鶯橫町拜訪了臥病的正岡子規(guī)难审。子規(guī)向我介紹了夏目漱石先生在尋找工作及其他方面許多孤軍奮斗的故事。實(shí)際上近上,子規(guī)和先生是相互敬畏的最親密的朋友剔宪,可是拂铡,當(dāng)我問(wèn)先生時(shí)壹无,他便笑著說(shuō):“子規(guī)這人是個(gè)凡事認(rèn)為自己高明的狂妄之徒呀!”話似含嘲諷感帅,我卻從中體察到他們互敬互諒的諍友情誼斗锭。
注:正岡子規(guī) (1867~1902),1867年10月14日出生于日本愛(ài)媛縣失球,是日本歌人岖是、俳人。本名常規(guī)实苞,別號(hào)獺祭書(shū)屋主人豺撑、竹之鄉(xiāng)下人。日本明治時(shí)代著名詩(shī)人黔牵、散文家聪轿。
高等學(xué)校を出て大學(xué)へはいる時(shí)に、先生の紹介をもらって上根岸鶯橫町かみねぎしうぐいすよこちょうに病床の正岡子規(guī)子をたずねた猾浦。その時(shí)陆错、子規(guī)は灯抛、夏目先生の就職その他についていろいろ骨を折って運(yùn)動(dòng)をしたというような話をして聞かせた。実際子規(guī)と先生とは互いに畏敬いけいし合った最も親しい交友であったと思われる音瓷。しかし对嚼、先生に聞くと、時(shí)には「いったい绳慎、子規(guī)という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている纵竖、生意気なやつだよ」などと言って笑われることもあった。そう言いながら杏愤、互いに許し合いなつかしがり合っている心持ちがよくわかるように思われるのであった磨确。
先生出洋留學(xué)時(shí)我去橫濱送行,他乘的是洛伊德公司的普魯森號(hào)輪声邦。和先生同行的芳賀矢一和藤代禎輔一邊揮動(dòng)帽子乏奥,一邊愉快地向來(lái)送行的人話別。唯有先生一個(gè)人倚在離他們不遠(yuǎn)的船舷邊亥曹,一動(dòng)不動(dòng)地俯視著碼頭邓了。輪船啟動(dòng)時(shí),我看到夫人用手絹捂住了臉媳瞪。不久骗炉,一張寄自神戶(hù)的明信片到了我的手中,上面寫(xiě)著俳句“海上秋風(fēng)吹學(xué)子”蛇受。
先生が洋行するので橫浜よこはまへ見(jiàn)送りに行った句葵。船はロイド社のプロイセン號(hào)であった。船の出るとき同行の芳賀はがさんと藤代ふじしろさんは帽子を振って見(jiàn)送りの人々に景気のいい挨拶あいさつを送っているのに兢仰、先生だけは一人少しはなれた舷側(cè)げんそくにもたれて身動(dòng)きもしないでじっと波止場(chǎng)はとばを見(jiàn)おろしていた乍丈。船が動(dòng)き出すと同時(shí)に、奧さんが顔にハンケチを當(dāng)てたのを見(jiàn)た把将∏嶙ǎ「秋風(fēng)の一人を吹くや海の上」という句をはがきに書(shū)いて神戸こうべからよこされた。
先生留學(xué)期間我因病休學(xué)一年察蹲,在故鄉(xiāng)的海岸邊療養(yǎng)请垛。我不堪寂寞,給先生寫(xiě)了冗長(zhǎng)的信寄往倫敦洽议,而后宗收,企望著先生的來(lái)信。這以后病愈再到東京亚兄,不久混稽,我妻子死了。我在本鄉(xiāng)第五街公寓中居住時(shí),先生回國(guó)了荚坞。我去新橋站(今汐留)相迎挑宠,只見(jiàn)先生跨下火車(chē),急切地把手伸向女兒颓影,托著下顎抬起她的頭久久地凝視著各淀,許久許久才放開(kāi)手,露出了他特有的微笑诡挂。
先生の留學(xué)中に自分は病気になって一年休學(xué)し碎浇、郷里の海岸で遊んでいたので、退屈まかせに長(zhǎng)たらしい手紙をかいてはロンドンの先生に送った璃俗。そうして先生からのたよりの來(lái)るのを楽しみにしていた奴璃。病気がよくなって再び上京し、まもなく妻をなくして本郷五丁目に下宿していたときに先生が帰朝された城豁。新橋しんばし駅(今の汐留しおどめ)へ迎いに行ったら苟穆、汽車(chē)からおりた先生がお嬢さんのあごに手をやって仰向かせて、じっと見(jiàn)つめていたが唱星、やがて手をはなして不思議な微笑をされたことを思い出す雳旅。
先生剛回國(guó),借住在矢來(lái)街他夫人娘家中根氏宅邸间聊,我去他家時(shí)攒盈,恰逢一口裝滿(mǎn)書(shū)籍的木箱運(yùn)到,一個(gè)名叫土屋的人打開(kāi)箱子取出書(shū)來(lái)哎榴。當(dāng)時(shí)有幸見(jiàn)識(shí)到英國(guó)美術(shù)館收藏的許多名畫(huà)的照片型豁,先生要我從中挑上兩三張好的。于是尚蝌,我得到了雷諾茲①的少女像和牟利羅②的《圣母的誕生》等名作迎变。先生從手提包里拿出一束人造白玫瑰花,我問(wèn)那是什么驼壶,回答說(shuō)是人家送的氏豌。那天在先生家著實(shí)美餐了一頓壽司③喉酌。當(dāng)時(shí)我竟一點(diǎn)沒(méi)有發(fā)覺(jué)热凹,后來(lái)才聽(tīng)人說(shuō),先生夾壽司卷時(shí)我也吃壽司卷泪电,先生吃雞蛋般妙,我也去取雞蛋,先生剩下蝦子相速,我也留下蝦子不食碟渺。先生逝世后發(fā)表的筆記中所說(shuō)的“T君吃壽司之方法”恐怕就是這時(shí)候的事吧。
①雷諾茲(172——1792)突诬,英國(guó)肖像畫(huà)家苫拍。
②牟利羅(1617——1682)芜繁,西班牙寫(xiě)實(shí)主義畫(huà)家。
③日本特有的一種點(diǎn)心绒极,用醋骏令、鹽調(diào)味過(guò)的米飯拌上或卷上魚(yú)肉、蔬菜垄提、海苔制成榔袋。
帰朝當(dāng)座の先生は矢來(lái)町やらいちょうの奧さんの実家中根なかね氏邸に仮寓かぐうしていた。自分のたずねた時(shí)は大きな木箱に書(shū)物のいっぱいつまった荷が著いて铡俐、土屋つちや君という人がそれをあけて本を取り出していた凰兑。そのとき英國(guó)の美術(shù)館にある名畫(huà)の寫(xiě)真をいろいろ見(jiàn)せられて、その中ですきなのを二三枚取れと言われたので审丘、レイノルズの女の子の絵やムリリョのマグダレナのマリアなどをもらった吏够。先生の手かばんの中から白ばらの造花が一束出て來(lái)た。それはなんですかと聞いたら滩报、人からもらったんだと言われた稿饰。たしかその時(shí)にすしのごちそうになった。自分はちっとも気がつかなかったが露泊、あとで聞いたところによると喉镰、先生が海苔巻のりまきにはしをつけると自分も海苔巻を食う。先生が卵を食うと自分も卵を取り上げる惭笑。先生が海老えびを殘したら侣姆、自分も海老を殘したのだそうである。先生の死後に出て來(lái)たノートの中に「Tのすしの食い方」と覚え書(shū)きのしてあったのは沉噩、この時(shí)のことらしい捺宗。
自從先生定居千馱木之后,我一如既往川蒙,總是三天兩日地去玩蚜厉。那時(shí)先生是英國(guó)文學(xué)課的教師、俳句家畜眨,門(mén)庭還不算熱鬧昼牛;盡管如此,我還是給他添了不少麻煩的康聂。有時(shí)雖然先生說(shuō)了“今天很忙贰健,你請(qǐng)先回去吧!”而我恬汁,總是海闊天空地聊些道聽(tīng)途說(shuō)的事久久坐著不想離開(kāi)伶椿。先生在工作,我就在一旁看《斯圖迪》雜志上的畫(huà)。那時(shí)脊另,先生很喜歡透納④的畫(huà)导狡,經(jīng)常談?wù)撚嘘P(guān)這個(gè)畫(huà)家的各種趣聞。有一次先生不知從哪兒得到一點(diǎn)稿費(fèi)偎痛,立刻去買(mǎi)了一套水彩畫(huà)筆具烘豌、寫(xiě)生冊(cè)和象牙訂書(shū)刀,高興地拿給我看看彼,他用那套筆具畫(huà)了明信片送給要好的朋友廊佩。小說(shuō)《我是貓》出版后,與橋口五葉和大家捕給子女士也互贈(zèng)過(guò)明信片靖榕。象牙訂書(shū)刀后刀刃出現(xiàn)缺口時(shí)标锄,先生便用小刀削好使之恢復(fù)原樣。他常說(shuō)茁计,“要跟上時(shí)代”料皇,經(jīng)常把象牙刀放在臉頰和鼻子上磨擦,油脂滲進(jìn)去使它變成了鱉甲色星压。書(shū)齋的墻上掛著一個(gè)不知名的黃檗宗和尚寫(xiě)的半幅字書(shū)践剂,案邊放著一把天狗鵝毛扇,用黑墨水記得密密麻麻的筆記總擱在書(shū)桌上娜膘,鈴木三重吉畫(huà)的影法師側(cè)面像也貼在墻上逊脯。還有不知是誰(shuí)送的瓶裝柑桂酒,先生喜歡它的形狀和顏色竣贪,并邀我喝军洼,“這是有杉樹(shù)葉味道的酒呀⊙菰酰”青綠色的羊羹是先生愛(ài)吃的匕争。我們一起去小吃店時(shí),他常征詢(xún):“要青豆湯么爷耀?”
④透納(1775——1851)英國(guó)風(fēng)景畫(huà)家甘桑。
千駄木せんだぎへ居を定められてからは、また昔のように三日にあげず遊びに行った歹叮。そのころはやはりまだ英文學(xué)の先生で俳人であっただけの先生の玄関はそれほどにぎやかでなかったが跑杭、それでもずいぶん迷惑なことであったに相違ない。きょうは忙しいから帰れと言われても盗胀、なんとか艘蹋、かとか勝手な事を言っては橫著にも居すわって、先生の仕事をしているそばでスチュディオの絵を見(jiàn)たりしていた票灰。當(dāng)時(shí)先生はターナーの絵が好きで、よくこの畫(huà)家についていろいろの話をされた。いつだったか屑迂、先生がどこかから少しばかりの原稿料をもらった時(shí)に浸策、さっそくそれで水彩絵の具一組とスケッチ帳と象牙ぞうげのブックナイフを買(mǎi)って來(lái)たのを見(jiàn)せられてたいそううれしそうに見(jiàn)えた。その絵の具で絵はがきをかいて親しい人たちに送ったりしていた惹盼∮购梗「貓ねこ」以後には橋口五葉はしぐちごよう氏や大塚楠緒子おおつかなおこ女史などとも絵はがきの交換があったようである。象牙のブックナイフはその後先端が少し欠けたのを手报、自分が小刀で削って形を直してあげたこともあった蚯舱。時(shí)代をつけると言ってしょっちゅう頬ほおや鼻へこすりつけるので脂あぶらが滲透しんとうして鼈甲色べっこういろになっていた。書(shū)斎の壁にはなんとかいう黃檗おうばくの坊さんの書(shū)の半折はんせつが掛けてあり掩蛤、天狗てんぐの羽団扇はうちわのようなものが座右に置いてあった事もあった枉昏。セピアのインキで細(xì)かく書(shū)いたノートがいつも機(jī)上にあった。鈴木三重吉すずきみえきち君自畫(huà)の橫顔の影法師が壁にはってあったこともある揍鸟。だれかからもらったキュラソーのびんの形と色を愛(ài)しながら兄裂、これは杉すぎの葉のにおいをつけた酒だよと言って飲まされたことを思い出すのである。草色の羊羹ようかんが好きであり阳藻、レストーランへいっしょに行くと晰奖、青豆のスープはあるかと聞くのが常であった。
《我是貓》這部作品的發(fā)表使先生一鳴驚人腥泥。與《子規(guī)》同人雜志有關(guān)的人召開(kāi)的文章研討會(huì)常常在先生家召開(kāi)匾南,先生讀完《貓》文后緊接著朗讀的總是高浜虎子。我曾經(jīng)聽(tīng)到先生十分難堪蛔外、拘謹(jǐn)?shù)乩首x自己的作品午衰。
「吾輩わがはいは貓である」で先生は一足飛びに有名になってしまった。ホトトギス関係の人々の文章會(huì)が時(shí)々先生の宅うちで開(kāi)かれるようになった冒萄。先生の「貓」のつづきを朗読するのはいつも高浜たかはまさんであったが臊岸、先生は時(shí)々はなはだきまりの悪そうな顔をして、かたくなって朗読を聞いていたこともあったようである尊流。
我在學(xué)校翻閱哲學(xué)家雜志時(shí)看到名叫萊威寧?哈頓的一篇論述《上吊的力學(xué)》的稀奇的論文帅戒,便告訴了先生。先生說(shuō):“這很有趣崖技,借我看看逻住。”于是我去圖書(shū)館借了給他迎献。這篇文章的觀點(diǎn)后來(lái)在(我是貓)一書(shū)中成了寒月君的講演再現(xiàn)出來(lái)瞎访。先生在高中時(shí)是數(shù)學(xué)的高手,他對(duì)這類(lèi)論文具有一讀就懂的素養(yǎng)吁恍,我想扒秸,這在文學(xué)家中恐怕還是個(gè)特例吧播演。
自分が學(xué)校で古いフィロソフィカル?マガジンを見(jiàn)ていたらレヴェレンド?ハウトンという人の「首つりの力學(xué)」を論じた珍しい論文が見(jiàn)つかったので先生に報(bào)告したら、それはおもしろいから見(jiàn)せろというので學(xué)校から借りて來(lái)て用立てた伴奥。それが「貓ねこ」の寒月かんげつ君の講演になって現(xiàn)われている写烤。高等學(xué)校時(shí)代に數(shù)學(xué)の得意であった先生は、こういうものを読んでもちゃんと理解するだけの素養(yǎng)をもっていたのである拾徙。文學(xué)者には異例であろうと思う洲炊。
先生同我和高浜、坂本尼啡、寒川諸氏同去神田連雀街的雞肉店進(jìn)午餐后暂衡,在須田街一帶漫步時(shí),寒川氏談起一個(gè)怪記者投水自殺的場(chǎng)面崖瞭,后來(lái)也變?yōu)椤段沂秦垺分械囊还?jié)狂巢,成了寒月君的一個(gè)行跡。
高浜读恃、坂本さかもと隧膘、寒川さむかわ諸氏と先生と自分とで神田連雀町かんだれんじゃくちょうの鶏肉屋とりにくやへ晝飯を食いに行った時(shí)、須田町すだちょうへんを歩きながら寒川氏が話した寺惫、ある変わり者の新聞?dòng)浾撙紊硗钉菠螆?chǎng)面がやはり「貓ねこ」の一節(jié)に寒月君の行跡の一つとして現(xiàn)われているのである疹吃。
我常和先生一起去上野音樂(lè)學(xué)校聽(tīng)每月一次的“明治音樂(lè)演奏會(huì)”,演出的曲目中有時(shí)有一種由青蛙叫聲和開(kāi)香檳酒瓶蓋相混雜的標(biāo)題音樂(lè)西雀,這種音樂(lè)實(shí)在怪得出奇萨驶,當(dāng)我們?cè)诨丶业穆飞陷p松地漫步在精養(yǎng)軒前的時(shí)候,先生“咕一咕一咕”地學(xué)著蛙鳴艇肴,又滑稽地笑起來(lái)腔呜。我覺(jué)得,先生那時(shí)處處顯現(xiàn)出年輕人特有的書(shū)生氣再悼。
上野うえのの音楽學(xué)校で毎月開(kāi)かれる明治音楽會(huì)の演奏會(huì)へ時(shí)々先生といっしょに出かけた核畴。ある時(shí)の曲目中にかえるの鳴き聲やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見(jiàn)えて冲九、帰り道に精養(yǎng)軒せいようけん前をぶらぶら歩きながら谤草、先生が、そのグウ/\/\というかえるの聲のまねをしては実に腹の奧からおかしそうに笑うのであった莺奸。そのころの先生にはまだ非常に若々しい書(shū)生っぽいところが多分にあったような気がする丑孩。
我的白色法蘭絨圍巾用成灰色了,先生就說(shuō)灭贷,臟了温学,讓女傭去洗∩跖保看起來(lái)仗岖,先生具有東京人那種時(shí)髦的氣派逃延,對(duì)各種服裝有特別的嗜好,外出時(shí)總穿得板板正正箩帚。他曾對(duì)我說(shuō):“哎真友,我新做了一套衣服黄痪,欣賞欣賞吧紧帕。”關(guān)于服裝桅打,先生給我的分?jǐn)?shù)是不及格是嗜。我的棉法蘭絨內(nèi)衣從外套袖口中露出二寸來(lái)長(zhǎng),常常遭到先生的戲?yàn)V挺尾。我還是個(gè)生來(lái)迂執(zhí)的人鹅搪,先生搬家時(shí)我也沒(méi)去幫忙,這一點(diǎn)也一直被先生掛在嘴上遭铺。先生還曾笑著說(shuō):“T君送給我的家鄉(xiāng)土產(chǎn)干松魚(yú)只有一瓶丽柿。”對(duì)于以孩子般的心情集于門(mén)下的年輕人來(lái)說(shuō)魂挂,先生總是用慈父的寬容來(lái)對(duì)待我們的一切缺點(diǎn)和過(guò)失的甫题,不過(guò),他的社交技巧的背后隱藏著的對(duì)敵意和謀算的敏感涂召,我們通過(guò)先生的作品也能了然坠非。
自分の白いネルの襟巻えりまきがよごれてねずみ色になっているのを、きたないからと言って女中にせんたくさせられたこともあったが果正、とにかく先生は江戸ッ子らしいなかなかのおしゃれで炎码、服裝にもいろいろの好みがあり、外出のときなどはずいぶんきちんとしていたものである秋泳×氏校「君、服を新調(diào)したから一つ見(jiàn)てくれ」と言われるようなこともあった迫皱。服裝については自分は先生からは落第點(diǎn)をもらっていた歉闰。綿ネルの下著が袖口そでぐちから二寸もはみ出しているのが、いつも先生から笑われる種であった舍杜。それから新娜、自分が生來(lái)のわがまま者でたとえば引っ越しの時(shí)などでもちっとも手伝わなかったりするので、この點(diǎn)でもすっかり罰點(diǎn)をつけられていた既绩。それからTは國(guó)のみやげに鰹節(jié)かつおぶしをたった一本持って來(lái)たと言って笑われたこともある概龄。しかし子供のような心で門(mén)下に集まる若い者には、あらゆる弱點(diǎn)や罪過(guò)に対して常に慈父の寛容をもって臨まれた饲握。そのかわり社交的技巧の底にかくれた敵意や打算に対してかなりに敏感であったことは先生の作品を見(jiàn)てもわかるのである私杜。
先生寫(xiě)小說(shuō)《虞美人草》的時(shí)候?qū)ξ艺f(shuō):“我讓你看看我從事研究的實(shí)驗(yàn)室吧蚕键。”一天衰粹,他帶我參觀了學(xué)校地下室里的實(shí)驗(yàn)裝置并作了詳細(xì)的說(shuō)明锣光。當(dāng)時(shí),正好在試驗(yàn)用紋影照片拍攝子彈飛行時(shí)前后的氣流铝耻。先生問(wèn):“把這個(gè)寫(xiě)到小說(shuō)里去行嗎誊爹?”我說(shuō):“這恐怕難于表達(dá)吧∑白剑”“那么频丘,你試著口述一個(gè)實(shí)驗(yàn)的例子吧∨萏”那時(shí)搂漠,我說(shuō)了偶然讀到的一個(gè)名叫尼克爾斯的學(xué)者進(jìn)行的有關(guān)“測(cè)定光壓”的試驗(yàn)情況。這樣聽(tīng)了一遍某弦,先生就完全理解了試驗(yàn)的要領(lǐng)备燃,他寫(xiě)的《野野官》就是描寫(xiě)這種實(shí)驗(yàn)情況的系宫,作品相當(dāng)確切地寫(xiě)了這種只聽(tīng)過(guò)未見(jiàn)過(guò)的試驗(yàn)乌庶。這樣的本領(lǐng)在日本文學(xué)家中也是罕見(jiàn)的果元。
「虞美人草ぐびじんそう」を書(shū)いていたころに、自分の研究をしている実験室を見(jiàn)せろと言われるので亮钦、一日學(xué)校へ案內(nèi)して地下室の実験裝置を見(jiàn)せて詳しい説明をした馆截。そのころはちょうど弾丸の飛行している前後の気波をシュリーレン寫(xiě)真にとることをやっていた》淅颍「これを小説の中へ書(shū)くがいいか」と言われるので蜡娶、それは少し困りますと言ったら、それなら何か他の実験の話をしろというので映穗、偶然そのころ読んでいたニコルスという學(xué)者の「光圧の測(cè)定」に関する実験の話をした窖张。それをたった一ぺん聞いただけで、すっかり要領(lǐng)をのみ込んで書(shū)いたのが「野々宮ののみやさん」の実験室の光景である蚁滋。聞いただけで見(jiàn)たことのない実験がかなりリアルに描かれているのである宿接。これも日本の文學(xué)者には珍しいと思う。
不僅如此辕录,先生對(duì)科學(xué)也有著濃厚的興趣睦霎,尤其喜愛(ài)談?wù)摽茖W(xué)研究的方法論。文學(xué)科研方法這一大課題時(shí)匙叩活躍在先生的腦海中副女,這點(diǎn)從他的論文、筆記中可以推測(cè)到的蚣旱。不過(guò)碑幅,到了晚年戴陡,他忙于創(chuàng)作,似乎再?zèng)]有這樣從事研究的時(shí)間了沟涨。
これに限らず一般科學(xué)に対しては深い興味をもっていて恤批、特に科學(xué)の方法論的方面の話をするのを喜ばれた。文學(xué)の科學(xué)的研究方法といったような大きなテーマが先生の頭の中に絶えず動(dòng)いていたことは裹赴、先生の論文や喜庞、ノートの中からも想像されるであろうと思う。しかし晩年には創(chuàng)作のほうが忙しくて篮昧、こうした研究の暇がなかったように見(jiàn)える赋荆。
先生在西片街住了一段時(shí)間笋妥,又遷往早稻田南街懊昨。我依然頻頻登門(mén)拜訪,星期四是我們約定見(jiàn)面的日子春宣,除此之外酵颁,我總是設(shè)法找點(diǎn)緣由在周日闖到先生家去打擾他。
西片町にしかたまちにしばらくいて月帝、それから早稲田南町わせだみなみちょうへ移られても自分は相変わらず頻繁ひんぱんに先生を訪問(wèn)した躏惋。木曜日が面會(huì)日ときまってからも、何かと理屈をつけては他の週日にもおしかけて行ってお邪魔をした嚷辅。
我出國(guó)期間簿姨,先生在修善寺得了那場(chǎng)大病,一度在生死線上仿惶簸搞。當(dāng)時(shí)扁位,小宮君寄來(lái)畫(huà)有先生住的旅館的明信片我是在月沈軒的低級(jí)旅館中收到的〕每。回國(guó)后相隔很久再見(jiàn)到先生時(shí)域仇,只覺(jué)得他和以往的先生有些不同了,他已上了年紀(jì)寺擂。會(huì)學(xué)青蛙叫的先生已不復(fù)存在了暇务。他樂(lè)于畫(huà)一流水平的南畫(huà),這種畫(huà)是過(guò)去水彩畫(huà)的發(fā)展怔软。我試著不客氣地給予批評(píng)垦细,先生嘴張得大大的,臉上非常難堪挡逼。不過(guò)括改,他還是接受了批評(píng),又重新修改了挚瘟。先生一面是十足的固執(zhí)叹谁,一面又是老實(shí)聽(tīng)取他人忠告的好好先生饲梭。我便常常進(jìn)行隨意的,有時(shí)甚至是失禮的批評(píng)焰檩,想來(lái)真有點(diǎn)對(duì)不住他憔涉。有一次,我們?cè)S多弟子拉著先生去淺草的月亮公園坐旋轉(zhuǎn)木馬析苫,當(dāng)時(shí)兜叨,他真有些為難,可是衩侥,畢竟按年輕人所要求的那樣跨上木馬轉(zhuǎn)起圈子來(lái)国旷。那時(shí),先生常去逛赤城下的古董店茫死,看中了“三圓的柳里恭”①畫(huà)跪但,便邀我一起去看貨。在位于京橋邊的讀賣(mài)新聞社舉辦第一次革新畫(huà)家聯(lián)合展覽會(huì)的時(shí)候峦萎,我看到一幅相當(dāng)滿(mǎn)意的畫(huà)屡久,我對(duì)先生說(shuō)想豁出錢(qián)買(mǎi)下來(lái)。他說(shuō):“好爱榔!讓我給你去瞧瞧被环。”一起去看了以后详幽,他說(shuō):“真不錯(cuò)筛欢,這是好畫(huà),買(mǎi)下來(lái)吧唇聘!”
①柳里恭(1706——1758)即柳澤淇園版姑,精通儒學(xué)、佛典雳灾、醫(yī)藥的日本博學(xué)者漠酿,擅長(zhǎng)畫(huà)元、明風(fēng)格的花鳥(niǎo)畫(huà)谎亩。
自分の洋行の留守中に先生は修善寺しゅぜんじであの大患にかかられ炒嘲、死生の間を彷徨ほうこうされたのであったが、そのときに小宮こみや君からよこしてくれた先生の宿の絵はがきをゲッチンゲンの下宿で受け取ったのであった匈庭。帰朝して後に久々で會(huì)った先生はなんだか昔の先生とは少しちがった先生のように自分には思われた夫凸。つまりなんとなく年を取られたというのでもあろう。かえるの聲のまねをするような先生はもういなかった阱持。昔かいた水彩畫(huà)の延長(zhǎng)と思われる一流の南畫(huà)のようなものをかいて楽しんでおられた夭拌。無(wú)遠(yuǎn)慮な批評(píng)を試みると口を四角にあいて非常に苦にがい顔をされたが、それでも、その批評(píng)を受けいれてさらに手を入れられることもあった鸽扁。先生は一面非常に強(qiáng)情なようでもあったが蒜绽、また一面には実に素直に人の言う事を受けいれる好々爺こうこうやらしいところもあった。それをいいことにして思い上がった失禮な批評(píng)などをしたのは済まなかったような気がする桶现。いつかおおぜいで先生を引っぱって淺草あさくさへ行ってルナパークのメリーゴーラウンドに乗せたこともあったが躲雅、いかにも迷惑そうではあったが若い者の言うなりになって木馬にのっかってぐるぐる回っていた。そのころよく赤城下あかぎしたの骨董店こっとうてんをひやかして骡和、「三円の柳里恭りゅうりきょう」などを物色して來(lái)ては自分を誘ってもう一ぺん見(jiàn)に行かれたりした相赁。京橋きょうばしぎわの読売新聞社で第一回のヒューザン會(huì)展覧會(huì)が開(kāi)かれたとき、自分が一つかなり気に入った絵があって慰于、それを奮発して買(mǎi)おうかと思うという話をしたら钮科、「よし、おれが見(jiàn)てやる」と言って同行され婆赠、「なるほど绵脯。これはいいから買(mǎi)いたまえ」といわれたこともあった。
先生晚年嗜好書(shū)法页藻,據(jù)說(shuō)瀧田樗陰君在周四會(huì)面日一大早就闖來(lái)桨嫁,坐著催先生為他寫(xiě)幾張,先生也真的寫(xiě)了好多幅份帐,使他如愿。我總覺(jué)得自己是隨時(shí)可以請(qǐng)先生寫(xiě)的楣导,然而废境,竟沒(méi)得到一張書(shū)畫(huà)。不知哪一天筒繁,先生特地在信中贈(zèng)我一首寫(xiě)在絹本上的漢詩(shī)噩凹,除了先生住在千馱木時(shí)的名信片外,這便是唯一的紀(jì)念品了毡咏。后來(lái)驮宴,先生過(guò)世后,又從家屬那兒得到他一幅掛畫(huà)呕缭。
晩年には書(shū)のほうも熱心であった堵泽。滝田樗陰たきたちょいん君が木曜面會(huì)日の朝からおしかけて、居催促で何枚でも書(shū)かせるのを恢总、負(fù)けずにいくらでも書(shū)いたそうである迎罗。自分はいつでも書(shū)いてもらえるような気がしてついつい絵も書(shū)も一枚ももらわないでいたら、いつか先生からわざわざ手紙を添えて絹本に漢詩(shī)を書(shū)いたのを贈(zèng)られた片仿。千駄木せんだぎ時(shí)代の絵はがきのほかにはこれが唯一の形見(jiàn)になったのであったが纹安、先生死後に絵の掛け物を一幅御遺族から頂戴ちょうだいした。
先生向?qū)毶聦W(xué)謠曲,一次他唱的時(shí)候厢岂,我說(shuō)先生的曲子是翹舌唱的光督,先生便說(shuō),“你真是個(gè)說(shuō)不出好話的家伙”塔粒,這件事一直使他耿耿于懷可帽。
謡曲を?qū)毶陇郅Δ筏绀Δ筏笫悉私踏铯盲皮い俊¥い膜|うたって聞かされたときに窗怒、先生の謡は巻き舌だと言ったら映跟、ひどいことを言うやつだと言っていつまでもその事を覚えておられた。
有一次扬虚,我和先生在早稻田住處的會(huì)客廳談話時(shí)努隙,從走廊上走來(lái)一個(gè)莫名其妙的醉漢,他衣著粗陋辜昵,東張西望地坐到先生跟前荸镊,突然以很不敬的口氣大聲罵將起來(lái)。后來(lái)才知道他是由M君帶來(lái)的曾經(jīng)是赫赫有名的O文士堪置。這個(gè)意外的情況使帶他來(lái)的M君張皇失措躬存,呆呆地不知怎么辦,但先生卻以極風(fēng)趣的態(tài)度對(duì)付醉漢舀锨,他毫不遜色地以同樣的表情岭洲、腔調(diào)起勁地與醉漢的僵舌對(duì)答,這時(shí)坎匿,我覺(jué)得又看到了那個(gè)不肯服輸?shù)臇|京漢盾剩。
いつか早稲田わせだの応接間で先生と話をしていたら廊下のほうから粗末な服裝をした変な男が酔っぱらったふうでうそうそはいって來(lái)て先生の前へすわりこんだと思うと、いきなり大聲で何かしら失禮な口調(diào)でののしり始めた替蔬。あとで聞くとそれはM君が連れて來(lái)た有名な過(guò)去の文士のOというのであった告私。連れて來(lái)たM君はこの意外の光景にすっかり面食らって立ち往生をしたそうであるが、その時(shí)先生のこの酔漢に対する応答の態(tài)度がおもしろかった承桥。相手の酔っぱらいの巻き舌に対して驻粟、どっちも負(fù)けずに同じような態(tài)度と口調(diào)で、小気味よくやりとりをしていた凶异。負(fù)けぬ気の生粋きっすいの江戸ッ子としての先生を蜀撑、この時(shí)目前に見(jiàn)ることができたような気がするのであった。
先生最后一次患重病時(shí)唠帝,我正好也得了同樣的疾病屯掖,十分虛弱,我到江戶(hù)河畔的花店里買(mǎi)了一盆秋海棠前去探望襟衰,沒(méi)獲準(zhǔn)與先生見(jiàn)面贴铜。據(jù)說(shuō)夫人捧著花盆走進(jìn)病房,先生只說(shuō)了句“真美啊绍坝!”我在廚房與M醫(yī)師談話時(shí)徘意,突然病房里傳來(lái)痛苦的呻吟,先生的胃好像又在大量出血轩褐。
先生最後の大患のときは椎咧、自分もちょうど同じような病気にかかって弱っていた。江戸川えどがわ畔の花屋でベコニアの鉢はちを求めてお見(jiàn)舞いに行ったときは把介、もう面會(huì)を許されなかった勤讽。奧さんがその花を持って病室へ行ったら一言「きれいだな」と言われたそうである。勝手のほうの爐のそばでM醫(yī)師と話をしていたら急に病室のほうで苦しそうなうなり聲が聞こえて拗踢、その時(shí)にまた多量の出血があったようであった脚牍。
我們沒(méi)來(lái)得及趕上先生的臨終,K君特地跑來(lái)送最后的通知巢墅。我搭上人力車(chē)诸狭,搖搖晃晃地奔向早稻田。途中君纫,透過(guò)車(chē)篷前的賽璐珞窗口見(jiàn)到的路燈驯遇,奇怪地成了模糊不清的星星,像是在發(fā)瘋似地狂舞蓄髓。
臨終には間に合わず叉庐、わざわざ飛んで來(lái)てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った双吆。その途中で眨唬、車(chē)の前面の幌ほろにはまったセルロイドの窓越しに見(jiàn)る街路の燈ひが、妙にぼやけた星形に見(jiàn)え好乐、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。
我從先生那兒得到許許多多的教誨瓦宜,不光學(xué)到了創(chuàng)作俳句的技巧蔚万,還懂得了靠自己的眼睛去發(fā)現(xiàn)自然美的真諦,同樣临庇,也學(xué)會(huì)了辨識(shí)人們內(nèi)心的真?zhèn)畏戳В瑥亩鵁釔?ài)純真、憎恨虛偽假夺。
先生からはいろいろのものを教えられた淮蜈。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見(jiàn)することを教わった已卷。同じようにまた梧田、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見(jiàn)分け、そうして真なるものを愛(ài)し偽なるものを憎むべき事を教えられた。
如若允許我心底那位極端的利己主義者發(fā)言裁眯,那么他會(huì)說(shuō)鹉梨,對(duì)于我,先生俳句作得好還是壞穿稳,英國(guó)文學(xué)精不精都是無(wú)關(guān)緊要的存皂,甚至先生要不要成為大文豪也是不足掛齒的,我倒是希望先生永遠(yuǎn)當(dāng)個(gè)無(wú)名的學(xué)校教師逢艘。我總感到旦袋,如果先生不是位名聲四播的大家,那么或許可以活得久些它改!
しかし自分の中にいる極端なエゴイストに言わせれば疤孕、自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが搔课、英文學(xué)に通じていようがいまいが胰柑、そんな事はどうでもよかった。いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが爬泥、そんなことは問(wèn)題にも何もならなかった柬讨。むしろ先生がいつまでも名もないただの學(xué)校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである。先生が大家にならなかったら少なくももっと長(zhǎng)生きをされたであろうという気がするのである袍啡。
每逢遇到種種不幸而心情煩悶時(shí)踩官,與先生見(jiàn)面交談,心中的塊壘就會(huì)不知不覺(jué)地消逝境输;每逢不平和煩惱憂(yōu)郁索繞心脾時(shí)蔗牡,只要先生在我跟前,心中就會(huì)雨霽云散嗅剖,以嶄新的心境全力投入自己的工作辩越。對(duì)于我,先生存在的本身便是一種精神食糧和一味良藥信粮。這一不可思議的影響是從先生身上哪一處涌流出來(lái)的呢黔攒?一來(lái)我對(duì)先生的觀察還不足以對(duì)此進(jìn)行分析,二來(lái)我也不愿這樣做强缘。
いろいろな不幸のために心が重くなったときに督惰、先生に會(huì)って話をしていると心の重荷がいつのまにか軽くなっていた。不平や煩悶はんもんのために心の暗くなった時(shí)に先生と相対していると旅掂、そういう心の黒雲(yún)がきれいに吹き払われ赏胚、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことができた。先生というものの存在そのものが心の糧かてとなり醫(yī)薬となるのであった商虐。こういう不思議な影響は先生の中のどういうところから流れ出すのであったか觉阅、それを分析しうるほどに先生を客観する事は問(wèn)題であり崖疤、またしようとは思わない。
花下の細(xì)我在思忖留拾,許多踏著鮮花下的小道集于先生門(mén)下的年輕人的心情大概和自己都一樣吧戳晌!因此,倘若讀者把我在這里寫(xiě)下的無(wú)止境的緬懷看作是我在獨(dú)占先生的話痴柔,那么沦偎,我想應(yīng)該能夠請(qǐng)你們知道并諒解我的文字已代表了先生其他各位弟子真實(shí)的心情。在先生過(guò)世后的今日咳蔚,一有什么機(jī)會(huì)豪嚎,我就和那些同出于先生門(mén)下的人們相聚,每當(dāng)這時(shí)谈火,大家所感到的難以名狀的懷念之情中侈询,隱匿著昔日在千馱木和早稻田先生家中集會(huì)時(shí)那愉快的記憶。
道をたどって先生の門(mén)下に集まった多くの若い人々の心はおそらく皆自分と同じようなものであったろうと思われる糯耍。それで自分のここに書(shū)いたこの取り止めもない追憶が扔字、さもさも自分だけで先生を獨(dú)占していたかのように読者に見(jiàn)えるとすれば、それはおそらく他の多くの門(mén)下生の各自の偽らぬ心持ちを代表するものとして了解しゆるしてもらわれるべきだと思う温技。そういう同門(mén)下の人たちと先生沒(méi)後の今日革为、時(shí)おり何かの機(jī)會(huì)で顔を合わせるごとに感じる名狀し難いなつかしさの奧には、千駄木せんだぎや早稲田わせだの先生の家における舵鳞、昔の愉快な集會(huì)の記憶が背景となって隠れているであろう震檩。
我在這篇追懷文章中,或許有不少與時(shí)代和事實(shí)相出入的地方蜓堕。我的主旨是想盡可能忠實(shí)地記錄下我主觀世界中先生的面影抛虏,介紹作為學(xué)者、作家和一個(gè)普通人的先生的形象套才。我的記述實(shí)在是一些過(guò)于零碎的片斷迂猴,謹(jǐn)請(qǐng)讀者及出自先生門(mén)下的諸賢寬恕。
記憶の悪い自分のこの追憶の記録には背伴、おそらく時(shí)代の錯(cuò)誤や错忱、事実の思い違いがいろいろあるであろうと思う。ただ自分の主観の世界における先生のおもかげを挂据、自分としてはできるだけ忠実に書(shū)いてみたつもりであるが、學(xué)者として儿普、作家として崎逃、また人間としての先生の面影を紹介するものとしては、あまりにも零細(xì)な枝葉の斷片に過(guò)ぎないものである眉孩。これについてはひたすらに読者ならびに同門(mén)下諸賢の寛容を祈る次第である个绍。
(昭和七年十二月勒葱,俳句講座)
(昭和七年十二月、俳句講座)