第十八課
紅葉之海
在一個秋高氣爽的日子里,我由櫻井市的圣林寺,前往談山神社沫屡。下車责循,過了小河,信步在田圃之中。那種寧靜勁兒凯正,與很久以前來訪時沒有一點兒的變化毙玻,叫人好不欣喜。
石佛被露水打濕了廊散。
圣林寺雄踞在與寺廟不甚相稱的高大的石壁之上桑滩。長滿苔蘚的、巖石壘成的堅固的石壁上方允睹,可以望見院墻及小山門运准。給人的印象,與其說是寺缭受,莫如說像城堡胁澳。
沿著石梯,拾級而上米者,登上山門韭畸,回首望去,但見萬里無云的佛青色天空下面蔓搞,金黃色的田野閃爍著光芒胰丁,遠(yuǎn)方蔥蘢的丘陵的那一邊,紫煙迷蒙喂分,輪廓平緩的三輪山依稀可辨隘马。十一面觀音的美姿,在大和之旅中是首屈一指的妻顶,每次前來參謁酸员,都給予我略有變化的印象:時而是男子般的剛健,時而是少女般的溫柔……這一回讳嘱,不知怎的幔嗦,我被她手指的美妙吸引住了。我出神地凝視著那柔軟而圓潤的手指沥潭,那好像拂上一絲風(fēng)兒就會倏忽改變姿態(tài)似的纖細(xì)的手指邀泉,使我流連忘返,久久不忍離去钝鸽。
我來到不太寬敞的庭院汇恤,樹叢的綠葉蒼翠欲滴;一種聽說叫作唐楓的珍奇的樹拔恰,滿枝的紅葉因谎,綺麗奪目。
爾后颜懊,我又享受到無比壯觀的紅葉盛宴财岔,我有幸巧遇了多武峰談山神社那漫山遍野宛如燃燒火焰般的紅葉的海洋风皿。
不染都市塵埃的紅葉的顏色,竟是這等的美麗匠璧。樹葉的泛紅桐款,有遲有早,恰好組成了一曲異常美妙的色彩的和聲夷恍。雜于其間的嫩綠色魔眨,時不時地突然閃現(xiàn),又給人以格外新鮮的感覺酿雪。
起初冰沙,當(dāng)我涉足紅葉之海的時候,我暗自后悔不該一人獨自前來执虹。
"喲拓挥,快瞧,那透明似的紅顏色多么漂亮按侥啤!"
"這淡淡的橙黃色也夠美的。"
我想茬故,大家贊嘆不已地相伴而行盖灸,該有多么快活呀!
我漫游在紅葉的海洋中磺芭,紅葉仿佛把我的身心都染透了似的赁炎。走著走著,我忽而又覺得滿足起來钾腺,滿山的紅葉都讓我一人獨享了徙垫,真夠闊氣的。
談山神社放棒,順自然地形而修建姻报,建筑牢固,黃昏中间螟,白粉墻吴旋、大屋頂隱現(xiàn)于林木之間。宛如紅葉染就的朱漆神殿與白粉墻壁厢破,相映成趣荣瑟,令人賞心悅目。似乎由于朱漆與金箔的絢爛摩泪,這里自稱是"關(guān)西的日光"笆焰。只此一點,我覺得卻是多余的加勤。
這里沒有日光那種過多的俗氣的裝飾仙辟,也不像日光那樣狹隘小氣。這里慷慨大方鳄梅,山氣清澄叠国。單舉一座立于參道邊的鐮倉時代的八角形摩尼輪塔,那風(fēng)貌就遠(yuǎn)非日光所及得上戴尸。
下了神殿粟焊,兩耳忽聞輕輕的水聲∷锩桑縈于院內(nèi)清爽的細(xì)流中项棠,也毫不吝惜地散落著紅葉。一片分外鮮艷的葉片挎峦,忽地漂流而去香追,打個漩兒,又卷進(jìn)下一個漩渦里去了坦胶。
第十八課
紅葉の海
永井路子
秋晴れの日に桜井の聖林寺から談山神社へぬけた透典。車を降りて小さな川を渡り、煙の中を歩いてゆく顿苇。その靜かさが峭咒、大分前におとずれたときとひとつも変っていないのがうれしかった。時ぶ:2石仏が草の露にぬれている纪岁。
聖林寺は凑队、およそ寺らしくない逞しい石垣の構(gòu)えの上にある。がっしり組みあげられた苔生す石垣の上に築地の堀幔翰、そして小さな山門がのぞく漩氨。寺というよりも城巖の感じが先に立つ。石段を上って山門のところでふとふりかえると遗增、雲(yún)一つない群青の空の下で煙は黃色に輝き才菠、そのむこう緑の丘陵の彼方に、紫色にかすむ贡定、なだらかな三輪山も見える赋访。大和路屈指の美し hoh い仏、十一面観音は缓待、來るごとに少しずつちがった印象を與えて
くれる蚓耽。あるときは男性的に雄々しく、あるときは旋炒、女性的にやさしく……步悠。今度はなぜか指の美しさにひかれた。ふっくらと7丸みをおびて瘫镇、風(fēng)のそよぎにもふと表情を変えてしまいそうな
指先の繊細(xì)さに長いこと私はみとれてしまった鼎兽。
那么さして広くない庭だが答姥、樹々の緑が美しい。からかえでとか聞いためずらしいもみじの紅葉が美しかった谚咬。が鹦付、今日はこのあと、さらにすばらしい紅葉の響宴に身をひたすことになった择卦。多武箏談山神社の全山燃えるばかりの紅葉に幸通めぐりあうことができたのだ敲长。都塵に染まない紅葉のいろというものは、こんなに美しいものか秉继。しかもそれぞれの樹々に紅葉の遅速があって祈噪、それがみごとな色のハーモニーをかたちっくっている。ところどころには思いがけない若い緑色がまじっていたりして尚辑、それがひどく新鮮な感じを與える辑鲤。
はじめ、この紅葉の海に足をふみいれたとき杠茬、私はひそかに遂填、一人できたことを後悔した。
「まあ澈蝙、ごらんなさい吓坚。あの透けるような紅のきれいなこと」、「うすいオレンジ色もきれいね」
トト灯荧、お互に嘆聲をあげながら歩いていったら礁击、どんなに楽しいこ
とか、という気がしたのだ逗载《吡」
が、紅葉の色にからだのなかまで染まりそうになって歩いているうち厉斟、これだけの紅葉をひとりじめするのも挚躯、ひとつのぜいたくなのだ、と思うようになった擦秽。
談山神社は码荔、地形の高低を利用して、がっしりした建物が木の間がくれに白い壁や大屋根をのぞかせている感挥。紅葉の色で染めたような朱塗りの社殿と白い壁が美しい缩搅。この朱塗りや金箔のけんらんさから、ここはみずから「関西の日光」と名のっているらしいが触幼、これだけは硼瓣、むしろ無用のつけたりだという気がした。
ここには日光の俗悪な裝飾過多やせせこましさはない置谦。むしろおおどかで堂鲤、山気は澄んでいる亿傅。參道に立つ謙倉時代の八角の摩尼輪塔ひとつとってみても、その風(fēng)格は遠(yuǎn)く日光のおよぶところではない瘟栖。
社殿を降りてくると葵擎、水の音が急に耳につきはじめた。境內(nèi)をめぐるそのさわやかな流れにも慢宗、紅葉は惜しげもなく散りこんでいて坪蚁、ひときわあざやかな一枚はついと流れにのって一回目につく年につく(転すると奔穿、また次の渦にまきこまれて行くのであった镜沽。
(中央文庫「わが町わが旅」による)