石が造る庭園(てんえん)宇宙(うちゅう)
石造庭院世界
枯山水(かれさんすい)、茶の湯の露地庭(ろちにわ)は東山(ひがしやま)文化から生まれた獨(dú)自の庭園形式(けいしき)だ。江戸期(えどき)には自然造形(ぞうけい)派の小堀(こほり)遠(yuǎn)州(えんしゅう)が活躍(かつやく)、美的な構(gòu)成(そうせい)された庭を好む(このむ)傾向(けいこう)が強(qiáng)まる。
枯山水,茶道的露天庭院鲫惶,是繼承了東山文化而產(chǎn)生的獨(dú)自的庭院形式。江戶時期曾活躍著以自然造形派而自居的小堀遠(yuǎn)州实抡,加強(qiáng)了對美的構(gòu)成的庭院藝術(shù)的愛好傾向欠母。
大徳寺「大仙院」の枯山水は欢策、深山幽谷のうねりを水を使わないでダイナミック表現(xiàn)した。(京都市北區(qū))
大德寺“大仙院”的枯山水赏淌,不用水而用深山幽谷的呻吟來表現(xiàn)生生氣息踩寇。(京都市北區(qū))
金禪寺「金地院」右側(cè)に鶴島、左側(cè)亀島六水、中間に石組みを配し(はいし)俺孙、「鶴亀石庭」と呼ばれる。中央の平面の石は東照宮の遙拝石缩擂。(京都市左京區(qū))
金禪寺“金地院”右側(cè)是鶴島鼠冕,左側(cè)是龜島,中間布置著庭院中的自然石組合胯盯,被叫做“鶴龜石庭”。中央平面上鋪的是東照宮的遙拜石计露。(京都市左京區(qū))
京都(きょうと)の西北(にしぼく)紫野(むらさきや)に広大(ひろだい)な寺域(じいき)を占める大徳寺(だいとくじ)博脑。その一角、大仙園(だいせんいん)の庭は深山幽谷(しんざんゆうこく)を表現(xiàn)(ひょうげん)した枯山水で有名(ゆうめい)だ票罐。
在京都西北的紫丁香原野上叉趣,是占據(jù)著廣大寺院區(qū)的大德寺。在它的一角该押,大仙寺的庭院以其表現(xiàn)深山幽谷的枯山水而著名疗杉。
國寶(こくほう)である方丈(ほうじょう)の東側(cè)(ひがしがわ)一帯に、枯山水が力強(qiáng)い偉観(いかん)を見せている蚕礼。ちょうど烟具、臺風(fēng)(だいふう)一過(いっか)の後の朝に訪(おとず)れたが、庭嫉斓拧(にわはだ)がしっとりに庭が生き生きとしていた朝聋。
作為國寶的方丈東側(cè)一帶,枯山水以其強(qiáng)悍的力度囤躁,看上去十分雄偉冀痕。恰好在臺風(fēng)剛過后的早晨造訪,巖石的表面濕漉漉的狸演,就像吸取了自然的氣息言蛇,整個庭院顯得生機(jī)勃勃。
方丈の北東角(ぼくとうかく)が枯山水の中心で宵距、不動石と観音(かんいん)石と名づけられた大きな石が二つ並び腊尚、その足元に鯉を象った鯉魚石がある。右後方(みぎこうほう)が蓬萊山の滝の石組みで消玄、滝を登った鯉が龍(りゅう)になる故事(こじ)から龍門瀑(りゅうもんばく)と呼ばれる跟伏。
方丈的東北角丢胚,是枯山水的中心,兩塊被叫做不動石和觀音石的大石頭并列著受扳,在它們的下面有一塊貌似鯉魚的鯉魚石携龟。在右后方布置成蓬萊山中的瀑布的庭院中的自然石組合,躍過瀑布的鯉魚變成了龍勘高,由于這個故事峡蟋,該瀑布又被叫做龍門瀑布。
滝の前には低(ひく)く石橋(いしはし)がかかり华望、流れ出た白砂(はくさ)の大河(たいか)には蕊蝗、舟(ぐな)を象徴(しょうちょう)した長船(ちょうせん)石がへさきを突き上げるようなに浮かんでいる。河が流れ込む方丈南側(cè)は白砂を敷き詰めた(しきつめた)庭で赖舟、大海(おおうみ)を表している蓬戚。
瀑布前面架著一座低矮的石橋,在流動著的大河般的白色碎石中宾抓,象征著舟的長船石船首向上突出著浮在水上子漩。大河流入方丈南側(cè)鋪滿了白色碎石的庭院,表現(xiàn)了大海的神韻石洗。
「はじめて接する人には威圧的にうつるだろう幢泼。滝あり、河たり讲衫、それが大きな流れになって海に向っているさまを人工のかぎりをつくしてつくってある缕棵。ここには抽象化は見られない。現(xiàn)実を具象(ぐぞう)化しているので涉兽、現(xiàn)実を象徴化した庭になっている」
“第一次接觸它的人感到了威嚴(yán)招驴。瀑布也好,大河也好花椭,在此匯成一股巨流流向大海忽匈,它是極盡人工所能及的手段而造就的。人們在這兒看不到抽象化矿辽,看到的只是現(xiàn)實(shí)中的具體形象丹允,將現(xiàn)實(shí)象征化了的庭院藝術(shù)〈螅”
作家雕蔽、立原正秋は名著(めいちょ)『日本の庭』でころ書でいる。
作家立原正秋在其名著《日本的庭院》一書中這樣寫著宾娜。
大仙(だいせん)院(いん)は一五〇九年(永正六年)(えいせい)批狐、古岳宗亙禪師(ぜんじ)が開創(chuàng)(かいそう)、伝記に『以て山水の趣(おもむき)
作る』とあり、禪師の作庭(さくにわ)とされる嚣艇。
大仙院于1509年(永正六年)由古岳宗亙禪師所開創(chuàng)承冰,傳記中有“以山水之趣而作”的說法,并留下了禪師的庭院作品食零。
枯山水は何時頃から始まったのか困乒。平安(へいあん)時代の造園術(shù)(そうえんじゅつ)の秘伝書『作庭記』に「枯山水事」として、「池もなく遣り水もなき所に贰谣、石をたつる事あり娜搂。これを枯山水となづく」出てくる。水のないところに石を立てることを枯山水と言っており吱抚、白い砂を敷き詰めた面を大海や池とみなす象徴性はない百宇。まだ庭の一部の石組みにとどまり、全體が枯山水の庭を造ることではない秘豹。
枯山水是從何時開始的呢携御?平安時代造園技術(shù)的秘傳本《作庭記》中有關(guān)于“枯石山水記事”的記載,“在既無池又無水的地方憋肖,有以石造景因痛,命名為枯山水“陡”在無水之處立石而稱其為枯石山水,而不是將白沙鋪滿地面將其看作大海和水池的象征膊升。另外庭院的一部分停留在自然石的組合怎炊,而不是全部造成枯山水庭院。
庭園(ていえん)研究家(けんきゅうか)廓译、重森三鈴は评肆、『作庭記』が指す枯山水を「前期枯山水」とし、室町時代以降のものを「後期枯山水」と呼んで區(qū)別したが非区、両者の間には非連接(れんせつ)な関係を読みとっている瓜挽。
庭院研究家重森三鈴將《作庭記》中所指的枯石山水稱為“前期枯山水”,室町時期以降則稱為“后期枯石山水” 征绸,加以區(qū)別久橙,兩者間以非連接關(guān)系來理解。
枯山水は管怠、中國山水畫の影響(えいきょう)を受け日本で獨(dú)自の発展をした庭園形式というのが共通(きょうつう)理解だ淆衷。それに加え(くわえ)、庭園史家の福田和氏は渤弛、「枯山水様式の庭は祝拯、室町時代、相阿彌などによってはじめられた東山流の盆石(盆景)の拡大(かくだい)とも見られる」とし她肯、「唐宋の頃佳头、王侯貴族(きぞく)の遊蕓(ゅげい)であった『仮山』(かさん)をそのまま模したもの」と中國文化と関係も指摘(してき)している鹰贵。
大家共同的理解是,枯山水是在中國山水畫的影響下日本獨(dú)自發(fā)展起來的庭院形式康嘉。再加上庭院史家福田和氏指出碉输,它與中國文化有著密切的關(guān)系。他說:“枯山水式樣的庭院凄鼻,可以看作是由室町時期腊瑟,由相阿彌等開創(chuàng)的東山流盆景的擴(kuò)大】榘觯”他還說:“在唐宋時代闰非,是由作為王侯貴族的游藝場所的‘假山’而模仿而來的∏头叮”
室町時代の枯山水は财松、確かに中國文化と関係が深い禪寺(ぜんじ)で発展した。その流れは夢窓國師から始まった纱控。外來(がいらい)の文化を創(chuàng)意(そうい)工夫(くふう)で消化(しょうか)し辆毡、日本的な美意識、精神性を加えていった中で甜害、日本獨(dú)自枯山水が出現(xiàn)(しゅつげん)したと言えるだろう舶掖。
室町時代的枯山水確實(shí)是由與中國有著密切關(guān)系的禪寺發(fā)展而來的,這種流派由夢窗國師而始尔店≌H粒可以說他將外來文化的創(chuàng)意和竅門加以消化,將日本的美的意識和精神加入其中嚣州,由此出現(xiàn)了日本獨(dú)自的枯山水藝術(shù)鲫售。
五山文化を背景(はいけい)に造園(ぞうえん)事業(yè)(じぎょう)が活発(かつはつ)になると、石立僧(いしだてそう)という名のデザイナーと该肴、庭者と呼ばれる職能(しょくのう)集団(しゅうだん)が前面(ぜんめん)登場(とうじょう)してくる情竹。慈照寺(銀閣寺)造営(そうえい)に心血(こころち)を注いだ足利義政(あしりぎせい)に重用(ちょうよう)された作庭の名人(めいじん)が、?山を?yàn)椁吩群濉浃蛑菠ㄇ匦А⑹蚺牛à悉ぃ─工毪颂煜碌谝护胜?と評判(ひょうばん)を得た善阿彌(ぜんあみ)である。
隨著以五山文化為背景的造園事業(yè)的活躍拱雏,與一位叫做石立僧的設(shè)計(jì)師一起棉安,被稱為庭院設(shè)計(jì)者的職能集團(tuán)在前面登場了。作為被重用為建造庭院的名人铸抑,足利義政為慈照寺(銀閣寺)的營建傾注了心血贡耽。有一位名叫善阿彌的高僧曾這樣評論說:“筑山,植樹,鋪石蒲赂,成為天下第一阱冶。”
義満が建てた金閣寺(きんかじ)の派手な北山文化(ほくざんぶんか)に対し滥嘴、義政による銀閣寺の東山文化は?枯淡?がキーワードの一つになる木蹬。応仁(おうにん)の亂(らん)で都(みやこ)を荒廃(こうはい)に導(dǎo)い(みちびい)た悲運(yùn)(ひうん)の將軍(しょうぐん)、義政が好ん(このむ)だ水墨畫(すいぼくが)若皱、茶の湯镊叁、能、連歌(れんか)走触、庭はいぶし銀のような趣(しゅ)をたたえている晦譬。東山文化の美意識は、現(xiàn)代の日本人の美意識(びいしき)に根深くつながっている互广。
相對于義滿所建造的金閣寺的華麗的北山文化敛腌,義政以銀閣寺為代表的東山文化則以“枯淡”為關(guān)鍵的一個詞語。在應(yīng)仁之亂中有導(dǎo)致京都荒蕪的不幸的將軍惫皱,義政喜歡的水墨畫像樊,茶道,連歌旅敷,庭院中充滿了碎銀一般的趣味生棍。東山文化的美的意識,在現(xiàn)代日本人的美的意識中深深扎下了根媳谁。
義政は金閣寺の東求堂(とうやどう)に足绅、四畳半の間取りで草奄(くさえん)茶室の源流(げんりゅう)となった同仁斎(とうにんさい)を作った。
茶の湯の祖韩脑、村田珠光(じゅこう)の影響があったと言われる。珠光に始まる侘數(shù)寄(わびすき)の茶は粹污、武野(ぶや)紹鴎(じょうおう)を経て千利休(せんりきゅう)で完成を見る段多。
在義政的金閣寺,筑有占四個半塌塌米空間的同仁齋壮吩,成為了草庵茶室的起源进苍,據(jù)說受到茶道的始祖村田珠光的影響。我們看到:由珠光而始的侘數(shù)寄茶道鸭叙,經(jīng)過武野紹鴎觉啊,再由千利休來完成。
世阿彌は?冷えたる曲?を蕓の極致(きょくち)に挙げた沈贝。珠光が唱える(となえる)?冷えた??枯れた?という価値(かち)観は杠人、連歌師心敬(しんけい)の?冷え氷たる??枯かしけて寒かれ?という批評(ひよう)眼と通底(つうそこ)している。
世阿彌以其“變涼曲”將藝術(shù)提高到極限。珠光念誦的“變涼了”嗡善,“枯萎了”之類的價(jià)值觀辑莫,是以連歌師心敬的“冷冰”、“枯寒”之類的批評觀點(diǎn)作為通則的罩引。
茶道や連歌の?枯れ?は各吨、庭の?枯山水?に通じる。編集(へんしゅう)工學(xué)(こうがく)研究(けんきゅう)所を主宰(しゅさい)する松岡正剛(まつおかせいごう)は『山水思想』によっで袁铐、あえて枯れさせた山水によって濕潤(しつじゅん)を感じさせるに至ったと「負(fù)の介在」思想に注目(ちゅうもく)揭蜒、それが「中國的山水と日本的山水を決定(けってい)的に別のものにした“何か”なのではあるまいか」と洞察(どうさつ)している。
茶道與連歌的“枯萎”剔桨,與庭院的“枯山水”相通屉更。主持工學(xué)編輯研究所的松岡正剛根據(jù)“山水思想”,并不根據(jù)枯萎的山水來感受濕潤领炫,以其“介于負(fù)面之間”的思想而令人矚目偶垮,由此洞察到“中國山水與日本山水之間,決定性的區(qū)別到底是什么呢帝洪?”